江の島名所二十七景                 ⇒江の島伝説に戻る



①片瀬江の島駅
 今しか撮れない小田急江ノ島線の終点駅の竜宮城駅舎!
 竜宮城をイメージした個性的なデザインで、地元住民や駅を訪れる観光客に長年親しまれてきました駅舎が約90年ぶりに建て替えられることになりました。
駅舎の老朽化と駅前広場の再整備によるため着工は未定ですが竣工は2020年のオリンピックに合わせる予定。
②江島神社護鎮座記念龍灯籠
 五頭竜と弁財天の伝説の島「江の島」は、鎌倉時代までは神島として普段は入島が禁止されていました。その後、江戸時代にはいる禁令がとかれ、弁天信仰の地として江戸庶民の信仰場所として人気を博しました。この伝説と信仰の島へ入る「江の島弁天橋」の入口に、
「欽明天皇13年(552年)のとき、突然海底から浮き上がったといわれる江の島湧出の時(江島縁起)から数え、1450年」を記念して、平成13年(2001年)に建てられたものです。
伝説の島への入場口にふさわしく、来島者社を迎える二対の龍灯籠は神域に入る参拝人の心気を引き締めてくれます。
③江の島弁天橋
 内地と江の島を繋ぐこの橋は車道と人道に分かれ、人道を江の島弁天橋と云い、昭和28年に竣工されました。なお、車道は江の島大橋と云い、昭和37年に竣工されました。
それ以前の弁天橋は1891年(明治24年)に、片瀬側砂浜から江の島を結ぶ橋として架けられ、当時は「江の島桟橋」と呼ばれていました。一時時期、1922年(大正11年)に県営の橋となり、渡橋料「金二銭也」がとられ、その後車道竣工に伴い渡橋料は無料となりました。
1923年(大正12年)9月1日大正関東地震による津波で県営桟橋流失するなど、自然の猛威にさらされた歴史を持つ弁天橋ですが現在の橋になり交通の不便はなくなりました。橋の途中には岩屋へ直行できる「べんてん丸」の船乗り場があります。
④青銅の鳥居
 江の島弁天橋を渡ってすぐ正面、弁財天店仲店通りの入口にある大きな青銅の鳥居は、1747年(延享4年)に建立され、1821年(文政4年)に再建されたものです。名文には 「鋳物師:粉川市正藤原国信、世話人:浅草新鳥越の八百屋喜四郎、願主:新吉原の扇屋宇衛門」etc.etc.」数多くの寄進者名が彫られ、江戸時代の信仰の広さを今に伝えています。藤沢市の指定文化財。
⑤江の島弁財天仲店通り
 江の島弁財天仲見世通りは、江島神社へ続く参道にある仲見世通りで、旅館やお土産屋、食堂などが数多く連なっています。道は地元で宿道と呼ぶ緩やかな上り坂でレトロ感いっぱいの通りです。。
⑥旧岩本院(岩本楼)
 鎌倉時代宿坊であった「岩本坊」は、のちに「岩本院」となり、江の島・三宮の総別当職を務めました。この由緒ある院は、文久2年、「岩本院の稚児あがり、普段着なれし振袖から、髷も島田に由比ヶ浜」の台詞(せりふ)で有名な、河竹黙阿弥の「白浪五人男」の舞台として取り上げられました。ちなみに、歌舞伎の白浪五人男に登場する「弁天小僧」は、岩本院の稚児がモデルであるとも言われています。その他にも、芝居、講談、小説など、数々の名作に岩本院の名は取り上げられ、740年余りの長きにわたって広く世に語り継がれてきました。国の登録有形文化財であるローマ風呂があります。
⑦江の島弁財天道標
 江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校が寄進したと伝えられています。
現在藤沢市内外に10数基が確認され、市内所在のうちで12基が市の重要文化財に指定されています。
この道標は、いずれも頂部のとがった角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。
この文言は、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。
⑧杉山検校の墓
 杉山和一(すぎやま わいち、慶長15年(1610年) - 元禄7年5月18日(1694年6月10日))は、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の鍼灸師。 杉山検校は、江ノ島の弁財天で21日間の断食をし、祈願したところ、その満願の日、帰り道にこの石につまずき、その時体を刺すものがあったので確かめてみると、松葉の入った竹の管だったいいいます。この出来事により、管鍼(かんしん)の技術を考案するきっかけとなったといわれています
検校であることから「杉山検校」とも称されます。鍼の施術法の一つである管鍼(かんしん)法を創始とした和一は、徳川5代将軍綱吉の信頼を得て、鍼治療をした褒美に江戸本所一つ目に領地を得ました。
1693年(元禄6年)、綱吉の命により、鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設しました。
 尚、「検校」(けんぎょう)という名称は、盲官の最高位のことです。
⑨福石
 上記の杉山検校和一がつまずいた石。この時杉山和一は倒れ気を失ってしまいました。すると、夢の中で美しい5色の雲にのって弁財天が現れたので、手を合わせて拝もうとしたとこら、何やらチクチクと身体を刺すものがありました。そこで夢から覚め、手にとってみると松葉の入った竹の管でした。 これにヒントを得て管鍼(かんしん)の術を考案してその元祖となり、それによって徳川綱吉の病を治療し、関東総検校に栄進したといわれています。今でも福を授けてくれる霊石として訪れる人がたくさんいます。 
⑩児玉神社
 明治時代の軍人・児玉源太郎を祀った神社で、かつて台湾総督として台湾の近代化に努力した縁により台湾の有志から贈られた、口の中の玉が回る名品の狛犬が有名。(雄が銭を持ち、雌が子供を持っていて、口の中で石の玉を転がしている名品です)
⑪江島神社「辺津宮」
 旧下之宮。江島大神(三女伸)の一人田寸津比賣命(た ぎつひめのみこと)を祀る。建永元年(1206年)源実朝が創建。権現造の社殿は延宝3年(1675年)に再建されました。奉安殿には八臂弁財天と妙音弁財天が安置されています。
⑫奉安殿
 奈良の法隆寺夢殿をモデルに建てられ、 源頼朝が、奥州平泉の藤原秀衡調伏のために、文覚に命じて勧請したと伝わる(もっとも古い部類に属する)八臂弁財天(はっぴべんざいてん)と江戸時代に寄進された裸弁財天(はだかべんざいてん)そして十五童子などが収められています。
⑬八坂神社
 江島神社境内末社の八坂神社は、江戸時代まで「天王社」と呼ばれていました(明治6年(1873年)に八坂神社と改称)。御祭神の建速須佐之男命たけはやすさのおのみことは天照大御神の弟神ですが、その御神格が非常に猛々しい為、疫病を始めとする様々な厄災を祓う神様として信仰されています。伝承は、その昔江の島の海で漁をしていた大海士たいかいし(素潜りの漁師の事で江の島独自の呼び名)が、岩屋沖に沈む須佐之男命の御神像を引き上げました。この御神像は、対岸の腰越の小動岬こゆるぎみさきに鎮座する小動神社で祀られていたものと判明しましたが、江の島に祀られる事となりました。
⑭の1沼田頼輔の歌碑

 沼田頼輔(1867-1934)は江戸時代最後の年に生まれ、昭和初期まで活躍した紋章学者です。1961年(昭和36年)に建立されました。「さながらに生けるが如く見まつりぬ御神ながらも肌ゆたかなり」
⑭の2宋の古碑
 源実朝ゆかりの碑です。1204年(元久元年)に源実朝の命を受けて宋に渡った良真が、宋の慶仁禅師より伝えられたという石碑です。その年月を感じさせるかのように摩滅しています。
⑮江島神社中津宮
 中津宮は、市寸島比賣命いちきしまひめのみことをお祀りしています。
中津宮は、もとの上之宮で、文徳天皇仁壽三年(853年)に慈覚大師じかくだいしが創建。元禄二年(1689年)に、五代将軍・徳川綱吉により、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りの社殿が再建されました。現在の社殿は、平成八年(1996年)の全面的な改修によるもので、元禄二年当時の朱色が鮮明な社殿を再現しています。
平成二十三年(2011年)には幣殿、拝殿の床板を張り替え、御札授与所も再建され、社殿脇には水琴窟を構えた庭園が開園しました(開園時間は午前9時~午後4時/無料)。また、境内に奉納された石燈籠からは、江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さをうかがい知ることができます。
また、かわいらしい朱色の社殿が目を引く中津宮は、江島神社の縁起である財天さまにあやかり「もっと奇麗になりたい!」「美しい恋をしたい!」と願う女性のパワースポットとして、密かな人気を集めています。
⑯サムエル・コッキング苑
 横浜在住のアイルランド人貿易商のサムエル・コッキングが金亀山与願寺(現在は神仏分離され江島神社)の菜園敷地3800坪を買収。1882年(明治15年)植物園として開園した、日本で3番目に古い植物園です。この後、時代の変遷や1923年(大正12年)の関東地震により、荒廃しましたが、1947年(昭和22年)4月1日 、 江の島を含む鎌倉郡片瀬町が藤沢市に編入され、藤沢市は江の島の観光地開発に乗り出しました。
2003年(平成15年)1月 に 旧江の島灯台に隣接して新たに建設された江ノ島電鉄所有の江の島展望灯台がオープン。その後、1951年に建てられた江の島灯台は解体されました。その新しい施設の中で、同年4月29日 に 整備後、藤沢市の公園施設「江の島サムエル・コッキング苑」としてオープンしました。
マイアミビーチ広場といわれる 東洋のマイアミビーチ片瀬海岸からヨットハーバーを見渡すウッドデッキの広場には、日本初のフレンチトースト専門店LONCAFEが営業を行っています。またマイアミビーチ市の売り物であるアール・デコをイメージしたモニュメント内には同市から贈られた「友好の鍵」が納められています。
⑰江の島大師
 江の島にはかつて552年に起源をもつとされる神仏習合の金亀山与願寺があり、また、814年には弘法大師空海が参拝し社殿を創建したと伝えられています。しかしながら、明治維新期の廃仏毀釈や神仏分離令により、与願寺の神道部分は江島神社となって存続する一方で、寺は廃され僧侶は全員僧籍を離れて神職となりました。江の島大師は、島から仏教寺院がなくなって百数十年を経た1993年(平成5年)、1964年(昭和39年)に廃業した旅館「江の島館」跡地に、最福寺 (鹿児島市)の関東別院として創建されました。本尊は不動明王で、室内にある像としては国内最大の高さ6mの威容を誇り、赤不動とよばれています。
⑱福島漁村句碑
 「貝がらも 桜の名のあり 島の春」、明治期の江の島人壇で(旅館江の島館の主人)、永野泉山の門下のなかでは達吟の人と呼ばれた漁村。江の島館跡地の一隅に建つ句碑です。
⑲一遍上人島井戸
 時宗の開祖一遍上人が、飲料水に苦労する島民の為に掘ったと伝えられ井戸。今も水をたたえています。「一遍上人成就水」と書かれた石碑が道路脇にあります。なお、一遍の筆と伝わる「一遍成就水」の額が江島神社に伝えられています。
⑳群猿奉賽像庚申供養塔
 塔の下部には蛇が巻き付き、塔身の四面には計36匹の猿が浮き彫りされて、猿の本尊である山王神を讃えています。江戸時代中~後期のものと考えられます。昭和38年(1963)に藤沢市の指定文化財となりました。
㉑龍野ケ岡自然の森道
 緑豊かな山道で撮影ポイントにも良い。奥には、島の伝説「天女と五頭龍」にちなみ、岩屋の上部の竜野ヶ丘に平成8年(1996)に設けられた、龍恋の鐘があり、恋人の丘として新たな名所となっています。
㉒山田検校座像
 
山田検校は宝暦7年(1757)江戸に尾張藩宝生流能楽師三田了任の子として生まれました。幼くして目が不自由になりますが、山田黒松に生田流の筝を学び、後年に山田流を興しました。浄瑠璃の旋律を取り入れて人気を呼び、多くの門弟を持ち、その功績で検校を授けられています。代表作の一つ「江の島曲」は、江の島に滞在して作ったと伝わっています。
㉓江島神社(奥津宮)
江島神社の奥津宮は、本宮御旅所と称され、夏期の避暑地でした。祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。壮麗を極めたという社殿は、1841年(天保12年)火災により焼失。現在の社殿は翌年に再建されたものです。
 源頼朝寄進の「石鳥居」や、拝殿天井の「八方睨みの亀」が知られています。
㉔高木蒼梧句碑
 愛知県に生まれ長く大和市下鶴間に住んだ俳人・俳文学者で本名は錠吉、通称は譲です。多くの著作がありますが、昭和35年(1960)『俳諧人名辞典』(明治書院)により文部大臣賞を受賞しました。これを祝して親交のあった江の島神社宮司相原直八郎が昭和36年(1961)に建てたもので、蒼梧の自筆で「夏富士や晩籟〔風の音〕 神を鎮しむる 蒼梧山人」とあります。
㉕服部南郭詩碑
 儒学者で漢詩人の服部南郭(1683~1759)。通称を小右衛門、名は元喬、字は子遷。京都に生まれ、江戸に出て、16歳で柳沢吉保に仕え、後に荻生徂徠の門下となり、徂徠の門弟として、経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称されました。34歳の時に柳沢家を辞し、現在の渋谷区東の南郭坂の別邸で塾を開きました。この詩は江の島に来て、稚児ヶ渕の岩壁に波が砕け散るさまを吟詠したものです。詩碑は南郭没後の文化2年(1805)に同志らが建立しました。
㉖稚児ヶ淵
 稚児ヶ淵の名は、鎌倉総承院の稚児白菊がこの淵に投身したことに由来しています。
昔、鎌倉建長寺広徳院に自休蔵主という僧侶がおりました。ある日、自休は江の島へ百日詣に出かけ、同じく江の島へ詣でていた、鎌倉鶴岡相承院で学問を学んでいる白菊という稚児に出会いました。自休はそれ以来白菊のことが忘れられず、思いを込めた便りを幾度となく白菊に送りましたが、返事はありませんでした。白菊はその自休の思いに追い込まれ、悩みました。
 ある夜、白菊は江の島へ渡り、扇子に歌を書き、それを島の渡守りに渡し、私を訪ねる者がいたらこれを見せてください、と言い残して淵から身を投じました。
 白菊を訪ねた自休がこの扇子を開いてみると「白菊を忍ぶ里の人とはば 思い入り江の島とこたへよ」「うきことを 思い入り江の島かげに すてる命は波の下草」とありました。これを見た自休は「白菊の 花のなさけのふかき海に ともに入り江の島ぞうれしき」と残し、白菊のあとを追ったといいます。
 この地には、大正初期まで白菊の碑があったといいます。
㉗江の島岩屋
 江の島神社発祥の地「岩屋」は古来より信仰の対象にされてきました。
欽明13年(552年)に欽明天皇の勅命で、ここに神様を勧請したのが江島神社の始まりで、江島神社は3つに分かれており、辺津(へつ)宮・中津宮・奥津宮の3つのお宮があります。
 弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われています。
 また、天女と五頭龍伝説には、
「昔々、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭を持つ悪霊が住み着き住人を苦しめていました。子供をいけにえに取られることから、この地を子死越(こしごえ)と呼び恐れられていました。
ある時、子死越前方の海上に密雲が何日もわたってたれこめましたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると今まで何もなかったかのように一つの島が出来ていました。
これが現在の江ノ島で、天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのですが、悪行がやむまでは断られてしまいました。この後、龍は心を改め、晴れて結婚できました。この天女こそが、江の島で祀られている弁財天です。
 なお、ここから80km離れている富士山の近くにある富岳氷穴までこの洞窟はつながっていると伝えられています。


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江島神社
蟇 石

絵馬
亀石、イチョウのご神木
奥津宮
稚児ケ淵