江の島縁起    伝説の島江の島をリアルに体感しよう⇒ 江の島名所二十七景

欽明天皇13年4月-海底より塊砂を噴き出し、21日で江の島創造。 「江嶋縁起」より
文武天皇4年(700年)4月-役小角が江の島の岩屋に参籠、以来、島全域が聖域となる。(右図:葛飾北斎『北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角)
天平勝宝元年(749年)10月-庸布墨書(正倉院所蔵)方瀬(片瀬)郷の郷戸主大伴首麻呂、調庸布一端を朝廷に貢進。
弘仁5年(814年)-空海(弘法大師)が金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、社殿(岩屋本宮)を創建、神仏習合により金亀山与願寺(よがんじ)という寺院とする。(右下図:空海)
仁寿3年(853年)-円仁(慈覚大師)が龍窟(現・岩屋)に籠もり、弁才天よりお告げを受け、上之宮(現・中津宮)の社殿を創建。
寿永元年(1182年)-源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請。
文治元年(1185年)-頼朝が弁才天(現・奥津宮)に鳥居を奉納。
建久元年(1190年)-北条時政、江の島に参籠、一族の繁栄を祈願。
この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、北条氏・「三鱗」の家紋と定める。
正治元年(1199年)-良真、江の島で千日余の修行。
・聖天島脇の祠に鶴岡八幡宮の供僧慈悲上人良真(じひしょうにんりょうしん)座像がある。この時、修行の邪魔をしたガマガエルを石に化したと伝えられる「蟇石」が辺津宮参道脇にある。
建仁元年(1201年)-将軍源頼家、江の島へ参詣。
建仁2年(1202年)7月15日-修業中の良真の眼前に聖天島に弁才天が現れ、山頂の社殿の荒廃を嘆く。「岩本院・江ノ島縁起絵巻第五巻」より (右図:弁財天)
元久元年(1204年)-良真、将軍源実朝の命により宋に渡り、慶仁禅師より江の島に因んで授けられたと伝えられる「江島霊迹建寺の碑」を辺津宮境内に建てる。
建永元年(1206年)-良真の請願により、下之宮(現・辺津宮)将軍源実朝により創建。
建保3年(1215年)-(9月)大地震。その後建保4年1月15日 - 江の島へ、徒歩で渡れるようになる(吾妻鏡)。
安貞2年(1228年)-将軍藤原頼経、江の島へ参詣。
南朝:延元3年、北朝:暦応元年(1338年)-室町幕府鎌倉府の保護のもと、御料所となる。
宝徳2年(1450年) -(江ノ島合戦)関東管領上杉氏重臣長尾景仲による鎌倉公方足利成氏政権転覆の計画が明らかとなり、鎌倉を脱出して江の島に逃れた成氏とこれを追跡してきた景仲の間で江の島を巡って攻防戦が行われた。
康正元年(1455年) - 足利成氏、江の島・岩本坊の間宮氏に、鎌倉警護の勲功を感謝する書状を送る。岩本坊は、成氏の武運長久を祈願し、弁才天像、扇子などを贈る。
永正元年(1504年) - 北条早雲が、江の島に軍勢の乱妨狼藉を禁止する制札を出した。
永正10年(1513年) - 八臂弁才天坐像、仏所上総により彩色等を補修。
享禄4年(1531年) - 江の島上之坊を岩本院が兼帯。
天文12年(1543年) - 蜷川康親、江の島岩本坊へ神馬を寄進。
天文18年(1549年) - 北条氏康、上之宮および下之宮の修造に際し、白糸20斤を寄進。
天文20年(1551年) - 北条綱成が、江の島岩屋内における鳩の殺生を禁止。
永禄6年(1563年) - 蜷川某、岩本院に制札を掲げ江の島参詣衆より関役を取らせる。
天正7年(1579年) - 北条氏照、岩本坊に不入・留浦など5か条の特権を認む。
慶長5年(1600年) - 徳川家康参拝。 (右上図:徳川家康)
寛永17年(1640年)- 岩本院と上之坊間で、利権争いが起こる。その結果、相続権・財政権・後任選任権などを得た岩本院は、幕府から朱印状を手に入れることになり、上之坊を奴属化させることに成功。
慶安元年(1648年)-岩本院、京都仁和寺の末寺となる。
慶安2年(1649年)-岩本院、徳川家光より「江島弁財天境内等諸役免除」の朱印状を受ける。
慶安3年(1650年)- 本院、江の島利権支配確立。
延宝2年(1674年)-徳川光圀参拝。 (右:徳川光圀像-水戸市)
江戸時代 - 江の島で弁天信仰が盛んになり、江戸から多くの町民が訪れ賑う。特に弁才天は音曲をつかさどる神として知られたため、検校など盲人音楽家や歌舞伎役者なども数多く参拝した。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。宿坊の岩本院は有名で、現在の旅館「岩本楼」の前身にあたる。 関東総検校(盲人の役職の最高位)となる杉山和一が管鍼術(鍼治療の一種)に開眼した場所として知られ、盲人の信仰も厚かった。
東海道藤沢宿から江の島に至る「江の島道」と呼ばれる道筋には、和一により寄進された道標が数基現存している。後に「日蓮宗の奇跡が起きた島」(奇跡の落雷により)としても有名になる。
延宝3年(1675年) - 下之宮(現辺津宮)の本殿、再建される。
元禄2年(1689年) - 中津宮が再建される。 三神社(岩本院・上之坊・下之坊)弁財天総開帳。この年が開帳の始まりとされる。
元禄3年(1690年) -杉山和一、下之宮(現辺津宮)の社殿再興。
元禄5年(1692年) -杉山和一、江ノ島弁才天の神徳を受け護摩堂を建立。
元禄6年(1693年) -杉山和一、下之宮(現・辺津宮)の三重塔を建立。
元禄7年(1694年) -杉山和一、没。江の島に笠塔婆型墓、建立。
元禄16年(1703年)-元禄地震。東端の小島、聖天島が隆起により半島状になる。
延享4年(1747年) -江島神社の青銅の大鳥居創建。
宝暦11年(1761年)-この年より7年に一度、相州江の島岩屋弁財天開帳が始まる 。
天明7年(1787年)-江の島近在の風流人12人が一日江の島に遊び、「相州・江乃島八景」を選んで漢詩と和歌を添え上之宮へ奉じる。 「岩屋之晴嵐」「江島寺晩鐘」「小児淵夜雨」「西浦之夕照」「東浦之帰帆」「金亀山秋月」「鵜島之落雁」「両山之暮雪」
寛政2年(1790年) - 中津宮の鳥居再建。
享和3年(1803年) - 酒井抱一、奥津宮拝殿天井の「八方睨みの亀」を描く。
文化元年(1804年) - 姫路城主 酒井雅楽頭源忠道が中津宮境内に「江島弁財天女上宮之碑」を建立。
文政2年(1819年) - 江戸・芝の講中、岩屋道道標を建立。
文政4年(1821年) - 江島神社の青銅の大鳥居、再建。
天保12年(1841年) - 中津宮参道の古帳庵夫妻の句碑、建立。
天保13年(1842年) - 奥津宮社殿、再建。
弘化元年(1844年) - 辺津宮の境内社、天王社(現・八坂神社)、再建。
嘉永4年(1851年) - 江島神社奥の院の鳥居、稚児ヶ淵への下り口に建立。
文久元年(1861年) - 中津宮の社前にあった竜宮城の門と同様な「不老門」を再建。
文久2年(1862年) - 河竹黙阿弥作の歌舞伎「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)(弁天娘女男白浪、通称「弁天小僧」)」江戸中村座で初演。
(右:弁天小僧映画ポスター-美空ひばりさん)
慶応元年(1865年) - 長堀検校ら、辺津宮の朱塗りの大鳥居の脇に大型の狛犬を寄進。
明治元年(1868年)9月21日(11月5日)-神奈川県となる。
明治6年(1873年) - 神仏分離令により、金亀山与願寺は廃され、神道部分が弁財天信仰を引き継ぎ、江島神社となる。辺津宮の境内社、天王社、八坂神社と改称。江の島に江島学舎が開校。旧岩本院、旅館「岩本楼」として開業。
明治8年(1875年) - 東大教授・ヒルゲンドルフが江の島で貝を買い、その後、オキナエビスが新種であることが分かる。
明治10年(1877年) - エドワード・S・モースが、江の島にシャミセンガイ研究のために江ノ島臨海実験所を設営した。江の島は日本初、海洋生物学発祥の地となる。





江島神社

蟇 石